第一章 誤解発生

「じゃ、行って来ます」
 シックな黒いジャケット・スーツに身を包んだ藤崎剛は、母親に外出を告げて家を出ると渡瀬のアパートへと向かった。
 歩いて五分の距離にある渡瀬のアパートで、毎週土曜の夜は朝まで雑談したりテレビゲームをしたりするのが、友人となってからの習慣になっている。
 渡瀬と知り合ったのは、大学一年生の夏休みのバイトの時だったが、その時はお互いにどこかで見た顔だという認識にとどまっていた。
 夏休みとバイト期間の終わったある日、学内でばったり出会った二人は、そこで初めてお互いの存在をより具体的に認識するようになった。
 趣味も性格もかなり異なる二人だが、不思議と話が合う事が多く、家も近い事から毎週土曜日の習慣が出来るまでにそう時間を要さなかった。
 渡瀬のアパートに着き、階段を登る。
 チャイムを鳴らして渡瀬が出てきて、朝まで飲み明かす酒類とかつまみを近所のコンビ ニへ買い出しに行く。
 これがいつの間にか決まっていた自然な流れだった。
 渡瀬よりはフォーマルっぽい服装が多い藤崎
 しかしこの日、チャイムを鳴らして出てきたのは、バスタオル一枚の女の子だった。

「あー、いいお湯だった」
 濡れた長い髪を器用にまとめ、絵梨はバスタオル一枚を体に巻いて脱衣所から出てきた。
「着替えは?」
「洗濯機貸してね。ついでに洗っちゃいたいから」
 正確には会話になっていないが、意味は通じる。
「お前が来るなんて、聞いてなかったぞ」
「そりゃそうよ。びっくりさせてやろうと思ったから」
「帰宅して誰かが勝手にシャワー浴びてりゃ、誰だってびっくりするわいっ!」
「あれは私だってびっくりしたわよ。裸見られるし、すぐにドア閉めてくれないし。もうスケベなんだから」
 一瞬、絵梨の裸が脳裏をよぎる。
「で、こっちに旅行か? 二、三日なら泊まっても構わんけど」
「そうね、順調にいけば二年間ってとこかな?」
 これには渡瀬もおどろいた。
「まさか、俺と同じK大学・・・あ、その大学のK短大に行くのか?」
 渡瀬の通っている大学には、女子短大も併設されていた。
「そうよ。入学手続きも済ませたし」
「荷物はどうするんだ? 一緒に住むには狭すぎるし、やだぞ俺は」
「やぁねぇ。ちゃんと隣に引っ越してきたわよ」
「隣? だって、そんな話一言も聞いてないぞ」
「だから、びっくりさせようと思って内緒にしといたの」
 話を聞くと、絵梨を一人暮らしさせるのに当初親は反対だったらしい。
 それなら渡瀬の下宿先に可能な限り近くでというところで妥協点が見いだされ、物件を探していたところ、ちょど隣部屋が空いたというわけである。
 絵梨からの説明には無かったが、親としても血が繋がっていない上に微妙な年齢同士である事から、不経済ではあっても同じ部屋にするという選択をしなかったのは確かだろう。
 また、お互いの存在が一種の重石(おもし)となって、極端に羽目を外すような事を防ぐ効果も期待したのだろうし、いざという時にはお互いに助け合う事も期待した結果の結論なのだろう。
 この考えはそう大きく外れていないと渡瀬は思ったし、実際、父親に関してはその通りだったのである。
 一方、絵梨の母、路子に関しては渡瀬の考えは大きく違っていた。
 母・路子は当初「さびしくなるから」という理由で娘の一人暮らしに反対していたが、それをあきらめると、「兄妹なら安心」と同じ部屋に住まわせる事を望んだのだった。
 この場合、父親よりも母親の方に「信頼されている」ように見えるが実はそうではなく、男は元来スケベだという事を父は男性としてよく理解していたのであり、路子は息子についてはあくまでも息子という認識で、男性的な側面についてはまるで認識していなかったのである。
 結局、娘と夫の多数決で、路子も同意せざるを得なかったのだ。
「・・・で、何で自分の部屋のシャワーを使わないんだ?」
「それがね、お母さんに手続きを頼んどいたら一週間間違えちゃってるのよ」
「路子さんに? 何の手続き?」
 聞きながらもだいたいの予測はついていた。
 渡瀬は結局、新しい母親を「お母さん」と呼ぶことなく「路子さん」で通してしまったのだが、絵梨は逆に渡瀬の父を素直に「お父さん」と呼んできた。
「電気でしょ、ガスでしょ、水道でしょ、それに電話。電話は携帯電話があるからまだいいけどね」
 路子は天然ボケが多少(?)入っているから、こういう事は日常茶飯事だった。
 絵梨の話では、引っ越し業者が帰った後に段ボールの開梱作業をやり始めたが、ライフラインの全てがまだ来ていない事に気が付き、確認してみると工事依頼日が一週間ずれている事が判明したのである。
 薄暗くなってこれ以上の作業は出来ず、引っ越し作業で埃まみれになったので、渡瀬が実家に預けてきた合い鍵(絵梨は念のためにこの合い鍵を持ってきた)を使ってシャワーを借りたという事だった。
「じゃ、一週間もこの部屋で過ごすのか?」
「そりゃそうでしょ。お風呂にも行けないし、トイレだって行けないし、炊事だって洗濯だって出来ないじゃない」
「そりゃそうだけど・・・」
 歯切れの悪い返事に絵梨は口をとがらせて
「何よ、都合悪いわけ? お兄ちゃんの部屋を見りゃわかるし、さっきだって、そういう人いないって言ってたじゃない」
「そういう人ったって・・・同棲でもしてると思ったのか?」
「あるいは通い妻とかね。そういった可能性も考えてたって事よ」
「もしも本当にいたらどうするつもりだったんだ? 合い鍵持った女性がいきなり鍵を開けたら、まず誤解するだろうが!」
「実際そんな事にならなかったからいいじゃない。ともかく、一週間ほど置いてよね」
「まぁそりゃいいけど・・・」
 その時、洗濯機から完了のブザーが聞こえた。
「ねぇ、洗濯物干してよ」
「俺がやるのか?」
「いつも自分でやってるんでしょ?」
「自分のは干すさ。まさかお前の下着もか?」
「ちゃんと枚数数えてあるからね、持ってかないでよ。って言っても着替えの一揃いだけどね」
「それだけはお前が干せよ」
「あのね、このバスタオル一枚の格好でベランダに出ろって言うの?」
 言われて渡瀬はやっと気が付いた。
「わかったからそこで待ってろよ」
「私の下着はタオルとかで隠して見えないように干してね。それと、洗濯物干し終わってからでいいから、何か上に着るもの貸してよね」
 かくして渡瀬はベランダに出て洗濯物を干し始めたのだが、そのタイミングが悪かった。
 藤崎が鳴らしたチャイムが、ベランダの渡瀬には聞こえなかったのだ。
 ピンポーン
「はーい」
 ついうっかり返事をしてしまった絵梨は、いまさら居留守を使うわけにもいかず、用件だけ聞けばいいやと思って、ドアにチェーンを掛けてからその限界までドアを開けた。

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